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    質問兵庫県神戸市兵庫区兵庫町 惜しい!

    • 2014/7/1
    • UhaUha-Yon

    兵庫県神戸市兵庫区兵庫町 惜しい!
    こんばんは。
    神戸市民の私からの質問です。
    神戸市が邪魔して全部揃いませんでした。
    ちなみに、青春18きっぷで行った兵庫町は香川県高松市のJR高松駅から南南東へ600m程の所にもあります。その商店街のうどん屋さん(東の端から西に向かって商店街に入ってすぐの左側のお店)は、麺の腰が日本二(日本一と言いたいところですが控えめに。)で、安くて美味しかったです。
    地元のお年寄りや会社員の人が多かったです。
    話が脱線!しました。
    上記町名の並びより多い地名がありましたらお教え下さい。
    全部ビンゴで無くても構いません。
    勿論ビンゴが理想ですが。
    よろしくお願い致します。

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  • 回答

    • 2014/7/12
    • QoooL
    • ベストアンサー

    お待たせしました。

    まず先に謝っておくと、#5でなんで自分で
    佐賀県藤津郡太良町大字多良字町
    と書いたのか、理由が思い出せない。
    全然ヒットしてないです。近くに、

    佐賀県藤津郡太良町大字多良字多良獄

    というのがあったけど。(たらちょう)


    私が取得したデータベースは 2012年度版なので、
    #2の方とは少~し違うかも知れないですね。例えば、

    栃木県芳賀郡芳賀町芳賀台   が
    栃木県芳賀郡芳賀町大字芳賀台

    と載っている(最近、戸籍以外の場面では、大字は省略して呼ぶ傾向みたいですけど)。
    あと一部、漢字はあるのにカタカナになっている?と思われる地名もありました。


    さて、まず、#7で答えたのは、3ヒットのみ。結局4ヒット以上はありませんでした。
    機械的に2文字を探させているので、
    山形県寒河江市大字寒河江字古河江
    も含みます。

    我ながら、18万件も、よく調べたと思う。ただ、まだ見落としはあるかも知れない。


    字違いで3ヒット以上は次が見つかりました(2ヒットはたくさんある)。

    岡山県苫田郡鏡野町鏡野町香々美

    熊本県球磨郡球磨村神瀬

    あと
    徳島県那賀郡那賀町西納香かの津
    は、納香が なか だと思ったら、のこ だった。


    同じ漢字を使っている ということだけ見れば 4ヒットがあり。

    京都府京都市中京区西ノ京西中合町
    京都府京都市右京区西京極徳大寺西団子田町
    京都府京都市右京区京北下町


    3ヒット 主なもの
    宮城県栗原市栗駒栗原杉橋
    鳥取県岩美郡岩美町岩本

    鳥取県岩美郡岩美町岩常
    鳥取県岩美郡岩美町岩井
    宮崎県都城市高城町高城

    しかし、やはり1文字だけ繰り返されても、お得感は薄い。
    漢字だけ言い出したら、志布志には足元にも及ばないですからね。


    というわけで、一生懸命探したけど、4ヒット以上は
    「見つけられず」
    という結論です。

    なかなか楽しませてもらいました。
    報告終了

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  • 締切済

    質問足利義昭について

    • 2007/6/4
    • hirarno36

    1・足利義昭は毛利氏の下で天寿を全うした?
    2・足利義昭と豊臣秀吉が茶席を設けた(お伽衆的存在だった)?
    3・足利氏の子孫の方はご健在でしょうか?

  • 回答

    • 2007/6/5
    • oska

    1.2.に付いては、皆さんがUPしている通りです。

    >3・足利氏の子孫の方はご健在でしょうか?

    現在、京都に「足利尊氏直系27代当主・足利進悟」さんが住んでいます。
    尊氏の系統は、江戸時代も「阿波公方」として続いていました。
    徳島県那賀郡那賀町平島に「公方館跡」(現、那賀町歴史資料館)があります。
    長宗我部元親の四国統一後も、脈々と「足利家」は独立した領地・家臣を維持していました。
    秀吉の四国統一後、蜂須賀家政が阿波入場と同時に(強制的に)領地を没収。3000貫の知行から100石の茶湯料となります。
    (当然、大規模な家臣のリストラが起こり、家臣は200余名に減少)
    その後、支配地に足利本家が居住している事を嫌った蜂須賀家は「足利の姓を平島姓に強制的に変更」し、一家臣として処遇したのです。
    幕末、赤飯を食べていた公方は、阿波を退去。紀伊徳川家を頼ります。
    その後、京都に戻り(毎年、紀伊徳川家から200両の援助)ます。
    紀伊徳川家からの援助は、明治30年まで続き(年200円)ました。

    明治維新は、足利家を「国賊」(後醍醐天皇に弓を引いた)として爵位を認めませんでした。
    新田義貞・楠木正成が英雄とされたのとは反対に(1945年まで)足利家は相当苦労したようです。

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