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    質問東海地方や九州でブリ系統の呼び方はどうなっていますか?? 関東とかどこかとおなじですか? それとも独

    • 2017/5/14
    • kaiserwave5879

    東海地方や九州でブリ系統の呼び方はどうなっていますか?? 関東とかどこかとおなじですか? それとも独自の呼び方はあひますか?

    35から60 60から80 80cm以上

  • 回答

    • 2017/5/14
    • noname#542361670
    • ベストアンサー

    山形県鶴岡市由良漁港 アオコ、イナダ、ワラサ。
    東京 ワカシ、ワカナ、ワカナゴ(10〜15センチ)、イナダ(30〜40センチ)
    相模湾(関東) ワカシ、イナダ、サンパク、ワラサ、ブリ
    愛知県 小型アブコ、3キロ前後イナダ、4〜10キロワラサ
    関西(大阪など) ツバス(10〜15センチ)、ハマチ(20〜40センチ)、メジロ(50〜60センチ)、ブリ(80センチ以上)
    和歌山県 ワカナゴ(10〜15センチ)、ツバス((20センチ前後)、イナダ、イナラ(25〜30センチ)、ハマチ(30〜40センチ)、メジロ(50〜60センチ)、ブリ(60センチ以上)、オオイオ((70〜80センチ)、ドタブリ(1メートル以上)
    富山県 ツバエソ・ツバイソ【6センチ前後】→コズクラ【9〜15センチ】→フクラギ・フクラゲ【福来来30〜45センチ】→アオブリ→ハナジロ→ガンド→ブリ→オオブリ
    富山県氷見市藪田浦漁業協同組合 アオコ→コズクラ→フクラギ→ガンド→サンカ(三年)→ブリ
    島根県 モジャコ、ショウジンゴ(ツバス、ワカナ)、ハマチ(ヤズ)、メジ、マルゴ、ブリ
    徳島県海部郡海陽町宍喰町 体長10cmまでの稚魚をモジャコ、25cmまでをツバス、重さ3.5kgまでをハマチ、重さ8kgまでをメジロ、それ以上をブリという。[『宍喰の民俗』(徳島県文化振興財団 2004)]
    高知県 モジャッコ(6センチ以下)、モジャコ(10センチ前後)、ワカナゴ(12〜20センチ)、ハマチ(30〜40センチ)、メジロ(40〜50センチ)、ブリ(60センチ以上)、オオイオ(80センチ以上)
    九州北部 ワカナゴ(9〜12センチ)、ヤズ(15〜20センチ)、ハマチ(30〜40センチ)、メジロ(50〜60センチ)、ブリ(80センチ以上)、オオウオ(1メートル)

    http://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%83%96%E3%83%AA

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  • 締切済

    質問幕末の遊学費用

    • 2015/8/11
    • どんぐり君

    幕末の遊学費用についての質問です。

    今でも教育には多額の費用が掛かって、親の収入による教育の格差問題があります。
    江戸期ならばなおさらの様に思われます。

    例えば大村益次郎です。

    彼は村医の長男で身分は百姓だと思いますが、ウィキペディアによりますと「天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。」とあります。

    学ぶことはいいのですが、学費とか生活費とかは一体どこから捻出していたのでしょうか?

    親が裕福ならばわかるのですが、とてもそのようには思われません。

    さらに手形などの許可も必要だったと思いますが、どうやって藩から手に入れたのでしょうか?

    大村益次郎が幼いときから神童と呼ばれて、学業が見込まれていたのなら将来を見越して誰かが援助するかもしれませんがそのような話も聞いたことがありません。

    彼は武士ですらありません。

    大村益次郎に限らないのですが、裕福でも神童でも無い人はどうやって遊学していたのでしょうか?

    もしご存じの方がおられましたらお教えください。
    よろしくお願いします。

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  • 回答

    • 2015/8/16
    • moto_koukousei
    • ベストアンサー

    > 鋳銭司村は今でも失礼ながら特に田舎です。
    > 今も江戸時代もあまり変わらない環境
    そのとおりなのかもしれませんが、1軒あたり10石以上の規模なら相応の経営規模なのだと思います。貧困地域ではないと思います。
    http://www.f-t-d.org/index.php?tn=index&in=91505 …
    http://www.geocities.jp/hatm3jp/051.html

    > 大村益次郎は地元を離れ18歳から26歳まで遊学していますが、いくら親が村医者とは言え、そうそういつも現金収入があったわけが無かったのではないか
    村田良庵は豊後の咸宜園で広瀬淡窓の下で1年強学び、その後九州北部を2ヶ月強遊歴して戻っています。金銭面では楽ではないでしょうが、20歳21歳の若者ですから、そうした苦労を当人は特に苦労だとは思わなかったと想像します。
    村田良庵から蔵六になった彼は23歳~26歳の間長崎で奥村に就いているときは苦学で代診のバイトで書籍代や後日の旅費、雑費を補ったそうです。

    > おそらく普段は百姓をして生活していたと思います。
    わかりません。親元にいるときには、多少はそうしたこともしていたでしょうが、一応使用人のいる村医者の息子ですから、さほど百姓っぽいことはしてなかったと想像します。19歳と22歳のときに三田尻の蘭医梅田幽斎に就いて学んでいます。この師が一層の勉学を推挙しているのだから、普段は百姓仕事をしている状態ではなくて、日夜勉学している学生だったろうと思います。25歳で適塾に入門が許されてからもガリ勉だったようです。

    > 長州藩では藩士なら藩の通行手形が必要です。そして幕末でも通行手形は必要でした。通行手形が間に合わなかった吉田松陰や手形を持っていなかった高杉晋作は脱藩の罪になりました。
    原則は往来手形が必要でしたし、修学や修行、お参り、商用、運搬、連絡その他、《医道執行ニ付九州表江罷越申候》のような形で正式に藩のしかるべき担当役人から手形をもらうことあるし、名主などの村役人、寺、あるいは関所を通過する前の宿屋で通行切手の発行を頼むこともできたようです。脱藩者が他の藩や江戸を遊学あるいは浪人などをしながら回れたという事実は大事です。勝小吉は14歳のときに家出して護摩の灰(旅人をねらう詐欺師)の助力で旅籠の手形を入手して関所を通過 http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/15sai.html 21歳のときに箱根の関所で手形無しで剣術修行と称して関所を通過 http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/21sai.html しています。長州藩は、一時期とても厳しい番所制限をします。 http://oouchibunka.jp/yamaguchicity_histry/bakum … しかし、その制限の前は、緩い管理状態だったのです。

    > 当時は職業とか住む場所などは自由が無いというか厳しく管理されていたので、旅行に行くのもそうそう簡単ではないものとばかり思っていました。
    そうだと思います。そもそも金銭事情や安全面もあるし、よほどのことがないと個人が勝手は出来ないです。伊勢参、お遍路でも、大山参りでも、費用を集団で積み立て団体旅行するのがやっとというヒトが多いと思います。職業選択も自由でなく、親の後を継ぐか、親の命令で修行や養子に出されるかが普通だと思います。 ただ、100人の人間がいると変わり者、変人、無頼もの、信仰や剣術、画業、舞踊、博徒、料理人に憧れてしまうものもいます。どうしても周囲の習慣になじめず放浪するものもいます。人間関係で排斥されたり、経済的に破綻したり、恋に溺れたり、いろいろあって、家をでる、村をでるということはあります。 そのとき藩や寺、名主などから正規の通行切手を得るのは無理です。 そうなれば裏の手をとるしかないです。 誰かに代書してもらった偽の通行切手、往来手形でも入手する方法もあったでしょうし、関所を迂回するとか、誰かのお供や手下のフリをして随行して関所を通り抜けるという手もあったでしょう。

    > 「百姓や町人からの登用も多いです。」はないと思います。
    例えばとくに会津藩とか薩摩藩など武士階級が強い藩で百姓や町人からの登用はむしろほとんど例がないのではないでしょうか。徳川藩関連もほぼ無いと思います。幕末当時何でもありの長州藩でさえ、百姓や町人は兵隊に登用される以外での登用はほとんど無かったと思います。
    《斎藤 弥九郎》 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4 … 現在の富山県氷見市仏生寺の農民、組合頭の長男として生まれた。文化7年越中の高岡へ奉公に赴き、油屋や薬屋の丁稚となったが、思うようにならなかったので帰郷した。江戸へ出ることを望み、文化12年親から一分銀を渡され出立する。途中、旅人の荷担ぎをして駄賃を稼ぎ、野宿をしながら江戸にたどり着いた。……… 20代で神道無念流岡田道場撃剣館の師範代に昇進し、岡田の死後は、後継者岡田利貞を後見した。文政9年29歳で独立して江戸九段坂下俎橋近くに練兵館を創立。長州藩は神道無念流を高く評価して、藩士の多くを練兵館に送って学ばせた。塾頭を務めた桂小五郎のほか、高杉晋作、品川弥二郎、井上聞多、伊藤俊輔、太田市之進らがいる。また、三男の斎藤歓之助は大村藩に仕え、同藩士渡辺昇、柴江運八郎らを指南した。

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    質問富山県氷見市 で夕食を食べるなら

    • 2013/8/5
    • kuroari

    近々予定している旅行中に寄る予定の「富山県氷見市」で
    おいしい夕食を食べられるお店を探しています。

    以前行ったお店が美味しかったよ~とか
    地元ではここが人気だよ~などあれば是非教えてください。

    エリアが大雑把ですがとりあえず市内ならどこでも(^-^)
    子供連れでいくので、あまり敷居の高くないお店でお願いします(^_^;)
    和洋中華なんでもOKです。
    実際に食べて美味しかったお店、皆さんに評判のいいお店など
    ご存知でしたら是非是非教えてください。

    よろしくお願いします

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  • 回答

    • 2013/8/13
    • noname#1989693
    • ベストアンサー

    せっかく氷見へ行くのならお寿司はどうでしょうか?
    敷居の高くないといったら、回転寿司はいかがでしょう。
    氷見には、富山を中心として、チェーン展開している「氷見きときと寿司」の本店があります。
    回転寿司といっても、どこぞの激安店と違います。地元のネタ、季節のネタが並んでいます。
    オススメは、回っているネタは取らないで、板前さんに直接注文してください。その場で握ってくれます。
    ぜひ、食べてみてください。

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  • 締切済

    質問富山県氷見市の民宿教えてください

    • 2013/6/18
    • natuhimawari07

    夏休みに氷見の民宿に家族5人+義父母と母の8人でお泊りに行こうと計画中です。海に直接歩いて行ける場所でお食事(お造りなど)のおいしいところ希望です。どこかおすすめはありますか?

  • 回答

    • 2013/6/19
    • itou2618

    富山県が主催している、観光未来創造塾で知り合いになった方が勤めている宿です。
    http://www.himikko.jp/
    よりよい「おもてなし」をしたいという、意欲ある宿だと思います。
    すぐ目の前に、氷見番屋街があって、富山湾の向こうに立山連峰が見えるそうです。
    http://himi-banya.jp/

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